こんにちは。庄文堂NEXTストアマネージャー 阿部です。
前回に引き続き、アレキサンダー・ジラードについてお話します。
アレキサンダー・ジラードの仕事の中で現存していませんが、
今も語り継がれる仕事の一つとして、ブラニフ国際航空のトータルデザインというものがあります。
今回は、ブラニフ国際航空について書いてみます。
伝説の航空会社
Braniff International Airways ブラニフ・エアウェイズとは?
1928年にテキサス州で、創業された航空会社
当時のアメリカで唯一コンコルドを所有し、
世界初のペイント飛行機を飛ばしジェット族と呼ばれる新しい世代を作り上げることになった航空会社です。
1960 年代~70 年代の最新トレンドを乗せた飛行機として世界中の注目を集めました。
その後、1982 年全ての便の就航を停止。その後一度は復活を果たすものの、1992年、航行を停止しました。
現在は伝説のエアラインとして、多くのファンに支持されています。
The End of the Plain Plane
退屈な飛行機の終焉
戦後、多くの航空会社がしのぎを削っており、国内外の競争が激化しました。
ブラニフ航空は、
1965年、コンチネンタル航空の副社長であった、
ハーディング・L・ローレンスを招きました。
社長になったローレンスは、他社との差別化を打ち出すべく、
それまでの広告代理店エイティブ・グループ社を解約して、
コンチネンタル航空時代から付き合いのあった、
中規模広告代理店であるジャック・ティンカー&パートナーズ社に、
新しい広告キャンペーンを依頼しました。
広告代理店の役員であったメリー・ウェルズが担当責任者になりました。
メリーは、仲間に、ブラニフ航空を担当することになったと打ち明けると、
「ブラニフとはカナダの町かい?」といわれたそうです。
それもそのはずです。
主要路線が米国の中南部とメキシコ、南米に集まっていたため、
堅実ではあるが田舎航空のイメージを持たれていました。
当時のブラニフ航空は、
メリーは、この知名度の低い航空会社をまずは、世間に広げなければと思い、
他の航空会社と差別化を図るために何をすればいいかアイディアを練りました。
そこで、著名なイタリア人デザイナー、エミリオ・プッチと、
ハーマンミラーのテキスタイルデザイナー、アレキサンダー・ジラードに相談しました。
1965年、
エミリオ・プッチとアレキサンダー・ジラードと共に、
The End of the Plain Plane 退屈な飛行機の終焉キャンペーンを展開。
エミリオ・プッチが客室乗務員の制服をデザイン
アレキサンダー・ジラードがトータルデザインを担当しました。
これまでの他社と代わり映えしない塗装を、
ピンク、オレンジ、イエロー・オーカー、ライト・ブルー、グリーン、コバルト・グリーン各色に塗りわけ、
合計7色の塗装を自社機材に施しました。
アレキサンダー・ジラルドは、1万7543点のデザインを手がけたと言われています。
機体の色、燃料補給の車両、手押しカート、
機内食用のスプーンや食器、そしてコーヒー用の角砂糖の包み紙
までカラーコーディネートしたそうです。
このロゴもジラードの作品だそうです。
空港のロビーでしょうか?
イームズのシェルチェアも置いてあります。
こちらがプッチデザインの客室乗務員の制服です。
まとめ
どうでしたか?
二人の偉大なデザイナーが作り上げた世界観は、
色鮮やかで見ているだけで、楽しくなりますね。
客室乗務員の制服は飛行時間が長くなるにつれて、
だんだん脱いでいくような形のアンサンブルにデザインされたそうです。
アレキサンダー・ジラードは、
飛行機の内装に用いる56種類のテキスタイルをはじめ、
トランプから紙マッチケース、荷物用タグからチケット、
空港のラウンジから機内デザインにいたるまで、
1万7543点ものデザインを手がけています。
残念ながら、ブラニフ国際航空は倒産してしまったため現存しませんが、
ハーマンミラーにはその当時、空港で使われていた、
上質なブランケット・ジラード スロー
が復刻されています。
気になる方はチェックして見てください。
今回は、ブラニフ・エアウェイズのお話をしました。
次回もお楽しみに。